弊社のこれまでの歩み

創立60周年記念誌の内容より、弊社のこれまでの歩みについてご紹介します。

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弊社のこれまでの歩みについて、平成22年に発行した創立60周年記念誌の内容よりご紹介します。

創業時代の思い出

戦後、焼け野原の秋葉原で2坪の店舗を構え、ラジオの組立て販売を開始した藤木会長に、秋葉原ラジオストアーの創業者達との思い出を語っていただきました。

中央無線電機株式会社 会長 藤木常雄 様

とにかく屋根がほしい - 苦労をともにした露店時代

藤木会長
大正13年8月29 日生まれ 86歳
旧目黒通信高等学校卒
日本電気入社から陸軍入隊
終戦後、東京都豊島区にてラジオ研究所(個人)発足
昭和27年6月 法人中央無線電機株式会社設立(本社千代田区)
仕事の傍ら、福祉関係の仕事に従事し、保護司として28年間
平成13年4月29日 藍綬褒章受章

ラジオストアーの方々とは、神田小川町の露店の時代からずっと苦楽をともにしてきました。

露店はとにかくつらい。冬は寒いし、夏は暑い。雨は降るし、風も吹く。ビニールでふたをしたって、たかがしれていますよ。食事に行くにもトイレに行くにも、一人ではどうしようもない。店は毎朝組み立てて、夜になったら撤去。掃除をしていると、地元を仕切る者が見回りに来て、「ちっともきれいになっていない」と怒鳴られる。警察の古物商の免許も必要でした。品物が残ったらリュックサックに詰めて持ち帰り、翌朝また運んでくるんです。

ストアー創立者の一人、知念さんの働きは忘れられませんね。とにかく、毎朝毎朝、早く出てきて露店の場所を確保していました。同じ並びでも、お客さんがよく通る角地を取る。それから、田中キヨ子さん。懐かしいなあ、きれいな人だったからねえ(笑)。キヨちゃんは女一人で露店から始めたんですよ。彼女はラジオや無線機のダイヤルをそろえていました。成田さんは満州で派手な暮らしをしていたそうですが、終戦で一夜にして丸裸。安部さんは、あまり口が上手じゃなかった。海軍時代は大尉か何かで、偉すぎたんですね(笑)。

藤木会長
自書「電気の街 秋葉原の今昔」を手に、語っていただいた

懐かしい顔を思い出しているとキリがないけれど、とにかくみんな苦労人。戦前以上の苦労を背負いながら、みんな一人で店を立ち上げました。

私は、何とかして露店から飛び出したかった。みんな同じ思いだったと思いますよ。1坪でもいいから、屋根のあるところ、品物をしまえるところがほしかった。そうしないと商売は成り立たない。でも、どうにもならないんですよ、お金がなかったから。

壊れたラジオが売れた!

戦時中、私は陸軍に入隊して、千葉県の千倉に送られました。電波探知機で米軍機の飛来を監視していたんです。もともと、日本電気で働いていましたからね。

その部隊にはテスターやら電子部品やら、電気関係のものはひととおりそろっていました。終戦になると、「進駐軍が来る前に全部燃やせ」という命令が出ます。私は惜しくてしかたがないので、一度穴に隠してから、リュックサックに詰め込んで、バラックとなった池袋の家に引き揚げてきました。

これが商売道具になりました。元の会社は仕事がなくて全員クビです。やむをえず、自宅でラジオの組み立てを始めました。子どものころから大好きだったことです。修理の依頼も多くて、忙しかったですよ。

秋葉原には、戦前から今の廣瀬無線さん、ヤマギワさんがあって、部品や電材の調達に通いました。それに、お客さんから直せないラジオをもらうこともある。これも貴重な材料でした。

しかし、一人でやるには大変な仕事です。しかも、当時は分解した部品でも壊れたラジオでも売れる時代です。修理をする人がたくさんいたからです。それなら露天商に切り替えようと、神田小川町に店を出したというわけです。昭和24年にGHQが露店撤廃令を出しますが、ちょうどその1年ほど前のことです。

私はその後、縁あって秋葉原駅前に2坪ほどの店舗をかまえました。露店と違って、戸を閉めれば品物をしまえます。「ああ、助かったな」と思いましたよ。

私は一足早く店舗を設けましたが、露店を続けていた方々は引越先のあてもないまま撤去命令を受けたわけです。そのときの皆さんの心境はとても想像できません。

世界の電気街は「ガード下」から始まった

露店の電気関係の仲間が集まって考えたのが、秋葉原のガード下でした。政治交渉などを重ねた結果、許可が下りたんです。そして、安部さんがリーダーになって、10社ぐらいが一角を確保した。それがラジオストアーとして発展していくわけです。

駅の前からヤマギワさんのほうにかけては、露店に近いような小さなお店が並んで、座っていれば売れるというほどの繁盛ぶり。昭和30年ぐらいまでは「パーツの秋葉原」としてお客さんが押し寄せました。家電の時代はそのあと。白黒テレビは昭和35年ごろからです。

社員旅行と田中キヨ子さん
写真左は創業時の社員旅行。写真右はラジオストアー紅一点、田中キヨ子さん

仕入れる品物は、何といっても軍の放出ものです。進駐軍の放出ものもあって、これは何でも立派でした。入札に参加して、一山いくらで仕入れてくるわけです。私は、米軍基地があった横須賀にもよく行きました。そして、無線機でも何でも、壊れた機械からはんだごてで部品を取り、並べて売る。じつに売れました。焼け跡から集めた電線を積んでいた店もありました。それもよく売れるんです。

のちに電子部品・家電メーカーのリーダー格になった方々も、大勢集まったものです。リヤカーやリュックサックで自社の部品を持ち込む人や、逆に、店先で部品を調達していく人もいましたね。

ラジオストアーには裸で立ち上がった強さがある

秋葉原がこれだけの「電気の街」に成長するなんて、誰も想像していなかったでしょう。
神田とも御徒町とも上野とも雰囲気が違う。日本中に電気の街が広がったのも、ここがあったからこそです。

藤木会長の隣が、現社長の藤木正則氏
藤木会長の隣が、現社長の藤木正則氏

その原点はラジオストアーさんだったと言ってもいいんじゃないですか?
続いてラジオセンターさんなどもできて、今の総武線のガード下ができあがる。もちろん、戦前から秋葉原に店を構えていた電気屋さんも多くありますが、電気街としてこれだけのにぎわいが生まれたのは、ストアーさん創立が大きなきっかけになったと思いますね。

今、ストアーさんも二代目、三代目の時代になって、別に本社を持ちながら事業を展開しているお店もありますが、それも駅前の拠点があったからこそだと思います。創業者の方々は、本当にいい拠点をつくりました。

しかも、初代は10人が10人とも仲がよかった。不思議なほどの連帯感がありましたし、民主的でした。露店の苦労のたまものです。
そして、素人の集まりだったから譲り合えた。お店ごとに取扱品が重ならなかったのも、そのおかげでしょう。商売人どうしなら、きっと争いになりますよ。金銭感覚もちゃんとしていた。困っている人がいると、何とかカバーしてやろうという気持ちがあったんです。

戦後は、みんな裸で立ち上がってきました。裸どうしが集まると、どうしてこんなに強いのかと思います。ラジオストアーにも電気街にも、その礎があるはず。変化がめまぐるしく厳しい時代ですが、創業者の方々の精神を忘れず、頑張ってほしいですね。

東京都千代田区外神田1丁目14番地2号
株式会社秋葉原ラジオストアー
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